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| 郷土・筑後の謎に迫る(7) 女王卑弥呼は薬物中毒で命を落としたのか? ● 東洋医学史研
究会
佐賀県の吉野ヶ里遺跡の発見に対する反響は大きかった。古代のロマンを求めて、現地
を訪れた人は短期間に百万人を突破したという。邪馬台国との関連性、大陸との交流あるいは古代中国の徐福渡来との関係が指摘され、 内外の学者を交えての熱気溢れるシンポジウムも連日くりひろげられた。 古代史ブームに一気に火が付いたというべきものであった。 ここではそうした考古学的論説ではなくて、別の観点から話を進めてみたい。 この吉野ヶ里遺跡の墳丘墓から出土した弥生中期のカメ棺内から水銀朱が出てきたが、 これは中国の皇帝や王属が黄金以上に珍重していた不老不死の仙薬(丹薬)であること が判明して、新聞でも大きく報道された。
それまではカメ棺内の装飾用の染料ぐらいに考えている向きもあって、物の見方が変 わるとすべての評価が変わるもので、まさに抱腹絶倒ものであった。 丹薬といえば、実際に古代中国の王侯貴族は長寿を願って、こうした有毒の水銀朱を 飲んでいたのである。 不老不死を願っていたのは、何も秦の始皇帝だけではなかったわけである。 中国の馬王堆漢墓から見つかった婦人のミイラからも、水銀朱や鉛丹の成分である砒 素、水銀、鉛が検出されているが、この婦人が当時の皇帝の従姉妹にあたる高貴な身分 であったことを考えると、その理由が頷けるわけである。 邪馬台国より吉野ヶ里の方が、時代がやや遡るのであるが、すでに弥生中期には中国 のこうした神仙思想が北部九州に伝播していたことは驚きである。 古代中国では、正当な治療医学の体系とは別系統の神仙思想に基づく不老不死を目的とするこうした神仙術が幅をきかしていた。
「魏志倭人伝」によると西暦二三九年に邪馬台国の卑弥呼の使者が魏の明帝に朝献し
たとき、金印・銅鏡と共に真珠(水銀朱)鉛丹各々五十斤を下賜されている。金丹、丹薬は王侯達が千金を積んで求めたものであが、多分に卑弥呼は魏王におねだ りしたのではないかと思うわけである。 当時は、神仙思想に繋がる丹薬にはそれだけの無視し がたい魅力があったのである。 しかもである、卑弥呼がこの仙薬を不老不死の霊薬と信じて服用していたとなると大 変である。卑弥呼は間違いなくこの丹薬による中毒で命を落としたことになる。 さしずめ「女王卑弥呼、筑後山門の地に死す」というところである。 中国の史書の「梁書諸夷伝」・倭に「正始中(二四〇〜二四八)、卑弥呼没す」とある。 卑弥呼が水銀朱を入手したのが二三九年か二四〇年(使者が持ち帰るのに相当の日数 がかかるので、その点を考慮する必要がある)とすると、死んだのが二四〇年から二四 八年の間のいつかである、が、そこまでは明確に記録されていない。(右写真は瀬高町観光案内) 恐らく二四七年か二四八年、そのあたりではないかと私は考える。 北部九州に邪馬台国があったのではないかという説に、卑弥呼の存在にも一段と関心が集まるわけだが、薬物中毒で命を亡くしたというと一辺に興ざめであろう。 それこそ美人薄命にも繋がらないわけで、やたら反論が出てきてもおかしくないところである。 しかしながら、当時の歴史的背景を見ていくとあながち間違った見方ではないことが分かってくる。 事実、丹薬は辰砂、丹砂といった水銀を含む鉱物から作られるため、これらの有害な含有物によって古代中国では夥しい中 毒死を引き起こしている。 しかも当時は、王侯や高貴な身分の貴族らが延命長寿を願って競うように丹薬を入手しようとした。 すでに「史記」(扁鵲倉公列伝)にもその中毒の症例が記述されているし、晋の哀帝 は丹薬による中毒で二五歳で命を落としている。それこそ同様の死亡事故が続発していて、重大な歴史的事件としても記録されている。 王侯の中には熱心なあまり、霊薬の専 門研究機関や役職(仙人博士官)といったものまで設置して実験や調剤をやらせていたという。 実験というだけに実際に罪人に服薬させて、安全性、効能をテストするのであるから、 中途半端なものではなかったのである。 丹薬精製も当時の最先端の技術であったし、相当な知識人が関わっていたこともあって根強い人気があった。中には専門職の医師までが自ら服用して中毒症状に苦しむということさえあった。 これはなにも古代の王侯貴族に限られたことではなくて、唐代になっても歴代皇帝の多くが煉丹 術に関心を持ち、これによって作られた丹薬の誘惑に負けて廃人、もしくは悲惨な中毒 死を遂げているのである。
唐の憲宗は金丹を飲んで次第に異常な行動をとるようになった。服薬の中毒で精神に異常が出てきたわけである。丹薬中毒特有の症状でもあるが、急に気短になり側近の官吏に理由もなく腹を立てるようになり、つぎつぎ と獄舎に繋いでしまった。 そして、結局は八二〇年に部下に暗殺されてしまったのである。これも結果的には一つの中毒死事件といえなくもないではないか。 暴君ネロもこれと同様に不老不死薬 や精力剤を漁っていたことから、一種の薬物中毒だった可能性がある。 事実あのネロの悪行もこうした中毒によって、脳神経が侵されたためとする学説があ るくらいである。 面白いことに 西洋では、古代中国のように王侯が不老不死の霊薬を捜すというより、毒を中和する 解毒剤が古代ギリシア・ローマ時代より熱心に求められたという。 というのは、各地に大小の王侯が割拠し対立していただけに、毒による暗殺事件が頻 発するという背景があったからである。 不死薬と解毒剤──王侯が求めて止まない薬物ということでは、どこか共通する部分 もあるが、その熱心さのあまり当代一の毒物学者になってしまった王様もいたのである。 古代ギリシアのアレキサンドリア時代にボストン(黒海の南岸にあった)の国王であ ったミトリダテス・エウパトル六世である。 彼は表向きは植物学(特に毒草)に造詣が深く、バビロニアやスキチアの有能な医師 団を招き、密かに王室研究機関を設け自ら毒物学の研究に没頭した。 彼は各地からありとあらゆる有毒物質を集めるとともに、その毒性を調べるために死 刑囚はもとより、奴隷や将兵で非情な人体実験を行ったという。 その結果、ミトリダテス大王は万能解毒剤「ミトリダチオン」を西暦六十年前後に完 成させたのである。
彼自身は毒殺されるのを極度に恐れ、普段から毒物に対する耐性を高める努力をして
おり、それと同時にこのミトリダチオンを常用していたのであった。ところがである、西暦六十三年にローマのボンベイウスの軍隊に攻め込まれ、ついに 落城という時、妻子共々服毒自殺を計ったミトリダテス王は不覚にも毒が効かないとい う事態に陥ったのである。 ミトリダテス王の体はすでに毒に対する耐性が見事にできあがっていたのである。 彼の命運は結局どうなったか。一説によるとローマ軍にさんざんに斬れて絶命したた といい、また側近の奴隷の手を借りて死んだともいう。 どちらにしても毒では死ななかったわけだから、本望というべきであろう。 解毒剤ミトリダチオンの処方は大王の遺物の中から発見され、ポンペイウスによって 戦利品としてローマに持ち帰られた。 この処方は文法家レネウスによって解読され、さらにラテン語に翻訳されたというが、 何と解毒剤は五十四種の成分から構成されており、これを見たローマの学者も舌を巻い たという。 さてさて古代の薬物中毒ということで話が多少ずれてしまったが、魏志倭人伝に「女王死するや、大いに塚を作る。径百余歩、殉葬者百余人」とあるのだが、これに対して卑弥呼の墳墓ではないかといわれる規模の大きな塚が筑後には何箇所かある。 筑後の謎といえば、卑弥呼の墓はどこなのか、これが当地の最大級の謎と言うことになるのではないだろうか。 上の写真は、その候補の一つとして挙げられるみやま市瀬高町にある古代遺跡「権現塚」である。まさに径百余歩の規模がある。 (一・七・七) |
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